きっと、この体に流れているのはどろどろと濁りきった血なのだ。
そうでないと説明がつかない。こんなにも汚れた感情を。


聞こえるのは時計の針の音だけだ。いつもなら小さな寝息も一緒にあるはずなのに、今日はそれが無い。
ベッドの中で仰向けに寝ている打ち止めは、豆電球すらついていない部屋の中で両瞼を上げていた。
目はすっかり暗闇に慣れてしまった。部屋の家具の形も、自分の手の形も、容易に見える。
日付が変わる1時間前には、確かに眠気と共にベッドに潜り込んだはずだった。だがいざ目を閉じてみても、夢の中へ潜り込む事は出来なかったのだ。
体勢を変え、毛布の位置調整を繰り返し、羊を数えまでした。そのどれもが希望とは正反対の結果となって、打ち止めは眠りにつくのを放棄する事となる。
毛布の中から片腕を出し天井へ向け、小さな手を握っては開くのを繰り返す。意味は無い。ただじっとしている事が出来なかった。
眠ってしまえば楽なのに、眠ろうとすると思考が邪魔をする。かといって起きていれば考える事を止められない。
悪循環でしかない今の状況は、打ち止めにとって不可思議でしか無かった。不可思議で、不愉快だ。

輪郭のはっきりとしない何かが、ある時から突然ついて回るようになった。
環境に変化があった訳でも、いつかのような事件が起こった訳でも無い。むしろその正反対の、平和としか言えない時が過ぎていたはずだ。
(…どうしたのかな、ってミサカはミサカは自分に問いかけてみたり)
ある時がいつなのか、打ち止めはそれをはっきりと自覚している。
息をする事の出来なくなってしまった、ショッピングセンターでのあの瞬間。
(…どうしてかな、ってミサカはミサカは更に疑問を追加してみる)



空が白さを持ち始めてからようやく眠りについた打ち止めは、気を抜けば落ちてしまいそうに重い瞼をこすりながらリビングへ続く扉をあけた。
ブラックコーヒーの香りが鼻をつき、次いで甘いココアの大好きなにおいが届く。
打ち止めは呆けた頭でリビングを見回すと、いつもの位置に一方通行がいる事が確認出来た。
今日はいつもよりも遅い時間にベッドから抜け出した為か、彼のほうが一足早かったようだ。
雲のかかった心が晴れていく気がして、自然、ほうと息が零れた。
だけどそれはほんの一瞬で終わりを告げる。
彼の隣にあるもうひとつの人影は、少女の心を再び暗雲で包み込む。
「あ……」
上等な生地のソファに座る一方通行の隣にいるのは、随分と大人びた"自分"だった。
「……っ」
いやだ!と、咄嗟に全身が叫ぶ。何が、と自問する余裕などは無い。
テレビ画面をつまらなそうに見つめていた一方通行の視線がこちらに向きそうになったのに気付いた瞬間、打ち止めは慌てて部屋の中へ逃げ込んだ。
思い切り閉めかけたドアの勢いをギリギリで緩め、なんとか小さな音だけで済ます。
くだらない工作をした所で、一方通行は打ち止めが一度リビングに足を踏み入れた事に気付いているであろう。
それはきっと、彼の隣にいた番外個体も同じだ。分かってはいたが、それでも息を潜めたかった。
ドアノブを握り締めたまま、打ち止めはしばらくじっと立ち尽くす。数秒経って肩の力を抜いてから、ようやくその場から離れた。
ベッドに向かう足取りは力無い。倒れこむようにしてベッドに転がり、毛布に顔を埋める。
今頃扉の向こうでは、二人がこちらを訝しげに見ているだろうか、それとも。
(っ、いやだ)一瞬すら浮かべたくない想像をしてしまい、打ち止めは大きく頭を振った。
そんな事は、少なくとも今現在はありえない話だ。
そう、今、は。
(いやだ)
原因の分からない苛立ちが。心臓を締め付ける何かが。それを隠せない自分が。それを隠そうとする自分が。
(いやだ……)
彼の隣にいる番外個体を見た時、醜い感情を抱いてしまった、そんな自分が。


ぼやけた意識を取り戻したのは、キシ、とフローリングの軋む音が聞こえてからだった。
毛布を頭まで被っているおかげで、打ち止めは外の様子を伺う事が出来ない。
出来ない、が、そこにいるのが誰かなんてすぐに分かってしまうのだ。
熱くなる目頭から溢れ出そうになるものが嫌で、打ち止めはぎゅうと目を閉じた。
「オイ、いつまで寝てンだ」
小さな少女のごちゃごちゃ等知ってか知らずか、無遠慮な一方通行の声が投げかけられる。
いつもはこんな風に起こしになんて来ないくせに、と打ち止めは益々瞼に力をこめた。
彼がこんな風に訪れたのは自分の行動が原因だと理解していたが、それでも、どうしてと思わずにはいられない。
「具合でも悪ィのかよ?」
直後にベッドに重みが加わりマットレスが沈んだのを感じて、打ち止めは反射的に目を開けた。
開けた所でやはり外は見えないが、すぐ側で一方通行がベッドに腰掛けているはずだ。
(…あなたが言うと変だよ、ってミサカはミサカは心中で返事してみる」
どんな反応を返せばいいか分からない、というよりも、彼の顔を見たら何かが崩れてしまいそうだった。
だから動く事が出来なくて、結局は寝た振りを続けてしまう。
直に触れている訳でも無いのにその体温が伝わってくるようで、引き始めたばかりの水分は再び彼女の瞳を覆い始めた。
止まって欲しいと願うのに、それは叶わない。
「……っぅ」
たまらずに胎児のように体を丸めると、布団の上に何かが乗せられる。それが一方通行の手だと知るのに時間はかからなかった。
「ふ、うえ…」
ゆるゆると腕が伸びる。まだごちゃごちゃは消えなくて、どうすればいいか分からなくて、それでも腕は彼へと向かう。
顔を押さえた為に涙で濡れた手は、外の空気に触れた瞬間やんわりと包まれて、打ち止めはとうとう声を上げ涙を流した。



ボロボロと涙を流す打ち止めを見て一方通行の目が驚きに一瞬見開かれたが、視界の歪む打ち止めがそれに気付く様子は無い。
「ひっ、うえ、や、やにゃ、ってみひゃ、みひゃか、みひゃか」
片手は繋いだまま、もう片手は毛布を握り締めて、打ち止めは駄々をこねる子どものように泣きじゃくる。
「……、…何歳児だオマエ」
一方通行は数度瞬きを繰り返し、それからそっと打ち止めの頭に手を置いた。
彼が打ち止めの泣き顔を見るのは初めてでは無い。
喜怒哀楽全てにおいて感情表現豊かなこの少女は、悲しみにも喜びにも涙を浮かべやすい体質だ。
それでも、ここまで声を大にして無く姿など目にした事が無かった。つまり、それほどまでに目の前の少女は苦しんでいる。
ここ数日、打ち止めの様子がどこかおかしい事は一方通行も気付いていた。それがいつから始まったものかという事も。
根っこにある原因までは探れなかったが、放ってなどおかず、もっと早くに口を割らせるべきだったろうかと過去の自分を悔やむ。
一方通行の表情はいつもと変わらないものだ。だけど、打ち止めの髪をゆっくりと撫でる彼の手の動きは、確実に戸惑いを表していた。
嗚咽を漏らしながら、打ち止めは一方通行の胸に顔を押し当てた。自分でもどうなっているか想像出来ない泣き顔を、見せたくなんて無かった。
次々とシャツに涙が染み込んでいくが、一方通行はそれを咎めない。
無言のまま髪を撫で続け、時たま静かに溜息をつく。それは呆れているようであり、そして自分を落ち着かせるかのような溜息だ。
「…うっく、…っ、い、いやだよ…」
やがて落ち着きを取り戻し始めたのか、先程よりもいくらかはっきりとした口調で打ち止めは呟いた。
顔を埋めたままのシャツを、小さな手がぎゅっと掴む。
「ミサッ、ミサカなのに…って、ミサカは、ミサカは…っ、でも、でも」

彼の隣にいるのは自分だと、自分だけだと、そんな身勝手な欲望を抱いて、身勝手に苛立ちを覚えて
だけど、隣にいる"誰か"を疎ましく思ってしまう自分はもっと腹立たしかった。
例えばそこにいるのがヨミカワやヨシカワと言った、自分が大好きな人たちであるにも関わらずだ。
何故こんな風になってしまったのか。ネットワークで探る事も、オトナ達に聞くのも躊躇われた。なんだか、とても悪い事のような気がして。
そうして溜めて溜めて溜め込んだ感情はどんどん膨れ上がり、そして。

自分であって自分でない少女が視界に入った瞬間、全てが破裂する。

そこにいるのは、一寸違わぬDNAを持った高校生位の少女。あれは数年先の自分の姿。だけど、あれは自分では無い。
大切で大好きな存在のはずの妹達のひとりに、嫌悪感に似た感情を抱くなど――最低だ。

「あなたの隣は、ミサカなのに…っ」

どうして、どうして。









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