知っているのは培養液の匂い、研究所の冷たい床、白衣を着た大人の下劣な笑み、美味しくない食事。
セレクターの埋め込まれた皮膚の感触、ネットワークへの潜り方、能力の使い道、鉄釘の効率的な使い方。
追い詰められる焦り、引き裂かれる痛み、血の抜けていく感覚、意識の途切れる瞬間、死に際の風景。
膨大な情報の海の一番深い場所に閉じ込められた感情は、この中でドロドロと漂っている。

何かを欲しいと思った事は無い。潜り込んだ中で見つけた『幸せ』と呼ぶものを、共有したいと思った事は無い。
それらはどれもこれもが不必要で、いつしか失われるものと脳は判断する。取り繕った偽善に満ちた人生を羨む感情は、誰もくれなかった。
汚れた悪意をたっぷりと注がれて、それだけの為に呼吸する。まだ会ったことのない、あの人の為だけにこの手足を動かす。

だってミサカの生まれた意味は、そこにしか存在していない。





「……いた」
誰に聞かせるでもなく、少女は低く静かな声で呟いた。恐怖心を煽る白一色の雪原に、蠢くターゲットの影を認識する。
幾度と繰り返し見てきた姿を、生まれて初めて視界に入れた。彼女の全てが、あの場所に在るのだ。
真っ白な髪と鋭い赤色に感慨は湧かず、それでも強制的に湧き上がる感情は全身に行き渡り、首を絞めたがらせている。
掠れ歪んだビジョンを内部から覗きこみ、間近で確かめた少年の目は随分と苛立ちを蓄えていた。
少年を取り囲む集団は奇妙で奇抜なようだが、そんな事はどうだって良い。
苦しめるだけ苦しめて、さっさとくたばってしまえ。そうしたら、さっさと役目を終えられる。
俯いた表情の奥で、濁った瞳が重たげに揺れる。無意識に舐めたピンク色の唇は、随分と乾燥していた。

腕に抱えた、小さな司令塔。朦朧とした意識の中に沈む感覚は、拾い集めた死を彷彿とさせた。
既にボロボロな役立たずをボロボロな腕で必死に守ろうとして、あんなものに価値を見出している。
壊れたものを修理するよりも、新しいものを用意したほうがずっと楽で役に立つのに。
それは当然の事と世界に蔓延し、議題に上がればゴミ箱へ行く。目移りは罪でなく、皆が無責任に次世代を期待しているのだ。
科学は次々と朽ち果て生まれ続けて、だから科学によって生まれたミサカ達は、科学によって進化する。
このミサカも、上が最重要と位置付けた最終信号でさえ、結局は同じように使い捨てが可能なプランに過ぎない。
守る必要の無いものを、檻から逃げ出してまで救おうとする愚かな第一位。もうすぐ、無様に全てが崩れ去る。



何もかもを知っているのに、何もかもを知らない。
一番近くにあるはずのものは一番遠く、きっとこの先も知る事は無いのだろう。
それを羨み妬む脳さえ持たず、ただの記憶や経験としての記号を蓄えていくだけで。

軽い命を与えられ、触れてきたものは随分と理解し難いもので溢れていた。
植え付けられた残酷な映像、押し付けられた憎しみは確かに現実として存在しているのに、どうしても『今』に繋がらない。
(つまらないよ)
流れこんでくる感情の多くは不可解で不愉快なものばかりで、ぬるま湯に浸かり生きる一万の幸運者達は酷く間抜けに思えた。
汲み上げるメッセージはどれも寒気がするような幸福と希望にまみれ、皆がそれにぶら下がっている。
もっと心地良いものを持っている癖に、蓋をして鍵をかけて見向きもしない。未熟な感情が、美味しい食事の邪魔をしていた。

何百何千と繰り返された、身勝手な実験の精算は終わってなどいない。
独りよがりの贖罪は何の慰めにもならず、心の満たされる日を待っていては時間の無駄だ。
奥底の憎しみをしまい込んだまま半端な平和を彷徨うなんて、そんなつまらない偽物にはこれっぽっちもそそられなかった。
(だからミサカが引き受けてあげる)
現状を受け入れてしまった、不完全な仲間達の底にこびり付いた血の匂いを。
眠ったままの黒色も、消え去った絶望も、この番外個体というイレギュラーが全て貰い受けて。
あの子を通して見た気持ちの悪いあたたかな日常も、あの人がたまに見せる穏やかな顔も、何もかもを正してあげる。
欲しいのは甘さなんかじゃなく、舌の爛れるような痛みだけ。それだけが、このミサカを完璧に作り上げる。





投下時刻の指令に、少女は壁際に座り込んだまま無言で頷く。窮屈な戦闘服を着込んだ細い指先が、ザリと床を引っ掻いた。
幻想を求め足掻く背中に突き立てる爪を想像するだけで、この命の動く音がする。さっさと使い捨てられるこの命の。


あの人は、いつ気が付くだろうか。
大事な大事な妹達と同じ顔した、大事な大事なたった一人の最終信号と同じ顔した、このミサカに。
あなたを死に追いやる為だけに生み出され死にゆく、可哀想なこのミサカに。
「……あなた」
絶望した瞳を、悲痛に歪む唇を、悶え苦しむ声を喘ぎ声を聞かせて。
あなたと同じ色をしたこの世界で、壊れるまで逃げまわってみせてよ。























2013/1/12


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