「オマエが仕掛けたンだ」

目の前にいるこの人は、だれ。

水滴が落ちる。
肌に当たった冷たさに、打ち止めはひっと小さく悲鳴をあげた。天井に目をやると、まだいくつか粒が残っている。
気まずい沈黙の中、少女は天井を見つめ続けた。視線を戻すのが、なんだか気まずい。
だがそうして気を逸らしていると、濡れた肩に今度は温かい体温。彼女は再び驚きに声をあげる。視界の隅に、自分のものではない指が見えた。
肩に置かれた手はゆっくりと首筋を這ってのぼり、そして顎に触れる。
「こっち見ろ」
優しく促す指とは違って、口調は命令的だ。打ち止めは音がならないように極力神経を尖らせて、大きく息を吸い込む。途端に、水滴が眉間に落ちた。

促されるようにして、視線を合わせる。赤い目とぶつかり合う、それだけで心臓が飛び出そうになった。
自分でも分かるくらいに顔が火照っている。頬を抑えたいが、一方通行がそれを許さない。
心のざわめきは収まらず、打ち止めは胸もとまで巻いているバスタオルをぎゅうと握りしめた。
「あ、あ、えっと……、って、ミサカはミサカは……」
言葉が、出てこない。
こんな展開になるなんて、予想だにしていなかったのだ。どうせ、いつもみたいにあしらわれるのだろうと。
……そう思っていれば、ダメだった時の傷を自分で誤魔化せるのだから。
卑怯な逃げ道まで作って、しかしそれは杞憂で終わってしまった。彼の瞳は真っ直ぐに少女を射抜く。
後ろはタイル張りで出来た浴室の壁。これ以上後ずさる場所は、無い。
「オマエ、自分が何してるか分かってンだよな?」
「え……」
「冗談でしたじゃ済まねェっつってンだ」
「じょう、だん……?」
よく分からないとでも言いたげな打ち止めを見て、一方通行はチッと舌打ちする。少女は小動物のようにビクついた。


彼は自分で思っている以上に苛立っていた。
もうあの時みたいな幼い子どもでは無い(それでもガキはガキだが)と言うのに、突然風呂場に現れたと思いきや好きだなんだと喚いて
そのくせこちらが動けば――怯えるみたいな態度取りやがって。

彼は自分で思っている以上に苛立っていた。それはつまり、怖がっていたと言っても良いだろう。


細い割に力強い指が、下唇に触れる。マシュマロの唇がふにと沈んだ。
何が起ころうとしているのか確認する間も無く、影が落ちてこようとしていた。
少しずつ少しずつ近づいてくる影に、打ち止めは思わず唇を結び瞼をきつく閉じる。
距離がゼロになる。訳も分からず脳がそう判断して身構えるが、しかしいつまでたっても何も起こらない。
「……?」
恐る恐る目を開けると、さっきよりもずっと近い距離に赤い目があった。炎のように熱く、強い瞳。とても苦しそうな、瞳。
(あ……、)
「……本気じゃねェなら、さっさと出てけ」
――体温が、離れていく。

心臓を掴んでいた視線が外されて、遠ざかる。
馬鹿げた行動だと、理解していた。それでも抑えきれない自身の感情を止められずに、この人が欲しくて欲しくて、この人に欲しいと思われたかった。
だけど結局は、覚悟も度胸も百に達していなかったのだと、打ち止めはひどく後悔する。
伸びてきた腕は、射抜く目は、すごく"男"だったのだ。そんな事は出会った時から分かっているつもりだったのに。
この人はあしらうのだろうと何処か投げやりな気持ちでいたのに、その男は自分を女として扱おうとしてきた。それが戸惑いとなって思考を止めてしまったのだ。
だけどその姿はきっと、彼にとっては怯えてるようにしか見えなかったのだろう。
「…っ、ちがう!」
咄嗟に出した声は思った以上に大きく、浴室内に少女の声が響き渡る。
これでは外にまで漏れてしまっているかもしれないが、そんな事を気にしている暇も余裕もありはしない。
「冗談なんかじゃないよ、ってミサカはミサカは否定してみたり……ちゃんと」
本気だもん、と、最後に搾り出した言葉はもう泣きそうになっていて、打ち止めは心中でしっかりしろと自身を叱咤した。
指先が冷たくなっていく感じがして、拳を握りしめる。
驚いたようにこちらを見てくる一方通行の目を、今度はこちらから、真っ直ぐに捉える。
諦めの気持ちなんて、最初から持たなくとも良かったのだ。ちっぽけなマイナスは、さっさと捨ててしまえばいい。

「……本気だから、出て行かない、ってミサカはミサカは言い切ってみる」























2011/04/27

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