冷たくも、暖かくもない場所。
ガラス越しの声。読み上げられる数値。会話の無い世界。
流れこんでくる記憶。痛覚。死にゆく感覚。
知識だけは、溢れているのに。知っているのは、薬品のニオイだけ。



――――光。

瞼をあげたすぐそばに、優しい光が溢れていた。
毎日代わり映えしない空間。窓の無い暗い壁。そんなものとは、程遠い。
少し硬くて首のつかれる居心地の良い枕の上で、少女の唇は自然と笑みを形取る。
視線の先の、つまらなそうにテレビを見ている赤い目。少しだけ伏せられた瞼の、長い睫毛。
いつまでも見続けていたい整った顔立ちに、そっと呼吸の音を沈めた。
けれど、少女のあと少しという願いは叶わない。
「……やっと起きたのか」
ふと気付き、見下ろしてくる呆れた瞳に、打ち止めは無言で頷き返す。
いつの間に眠りに落ちたのかは思い出せないけれど、分かるのは、彼がずっと膝を貸してくれていたという事だ。
きっと身動ぎひとつせず、ただじっと、静かに。

出会ったのは、偶然。
偶然、だけれど、必然でもあったのだろう。きっと、他の誰でもいけなかった。
たった一人で、世界と戦い続けた孤独な少年。いつしか苦しむ事すら忘れ、壊し続けた少年。
脳波でしか知り得なかった、濁りに濁った白を初めてこの瞳の中に入れた時、ただただ嬉しかった。
それは雛が初めて見たものを親鳥と思い込むような、そんなものだと言う人もいるかもしれないけれど。それならそれで良い。
感情の正体に、100%の解答など求めていないのだ。たったひとつ、出会えたという喜びは確かに此処にあったのだから。

「みんなは?ってミサカはミサカはやけに静かだなって質問してみる」
家の中に他の存在がいない、その独特の雰囲気を感じ取って、打ち止めは一方通行に問いかけた。
「買い物」
たった一言の的確な返答に、丸い目が開かれる。
寝転んだソファの上。水色のキャミソールがめくれるのも気にかけず、打ち止めはバタバタと足を泳がせた。
鬱陶しいと額を叩く手に負けず、悔しそうに眉を顰める。だって、今日は一緒にスーパーに行くと朝から黄泉川達と話していたのだ。
「ミサカも行きたかったのに!ってミサカはミサカは寝転びながら地団駄という新技を披露してみたりっ」
「寝てンのが悪ィ」
「起こして欲しかったのー!」
「起こしたっつーの」
缶コーヒー(確か今日で5日目だ)を傾けながら、一方通行はくいと膝を動かした。いつまでも動こうとしない小さな頭を、退かせと言っているのだろう。
もしかしたら痺れているのかもしれないなぁなんて思いながら、少女はにまりといたずらっ子の顔をする。
天井を向いていた体を横にして、薄っぺらく温かな腹部に腕を回す。直後降ってきた彼お得意のチョップにもめげず、打ち止めはぎゅうと一方通行に抱きついた。
「俺ァ避けろって言ったつもりなンだがなァ?」
「言ってないもん、ってミサカはミサカは屁理屈を繰り出してみる」
「屁理屈って分かってンじゃねェか」
ため息をつきながら、一方通行は少女を叩いた手でそのまま彼女の髪を指先でとく。

口が悪い。態度も悪い。その上乱暴者。
けれど、少年が誰よりも優しい事を、少女は知っている。
最近はこうして髪を撫でてくれるようにもなった。無意識なのだろうけれど、無意識だから、嬉しいのだ。


薬品のニオイを、嫌だと思った事は無かった。
他人の気配の無い空間を、寂しいと感じた事は無かった。
目覚める事なく、司令塔と言うキーボードとして生きる事に、疑問を抱いた事は無かった。
それが、実験動物である『ミサカ』の存在意義だと、ただ、それだけで。

その生き方に、否定する感情は生まれない。そういう世界だったのだ。黒髪のあの人が教えてくれるまでは。
薄暗い世界から掬い上げてくれたのは、『ミサカのヒーロー』。
けれど、その先は。
ミサカを、たった一人のミサカを、血まみれの手で守ってくれたのは。
寂しがりの体温を与えてくれたのは。
一緒にいたいと、願ってくれたのは。

(ミサカのヒーローはあなただよ)

部屋の中を照らす、柔らかな光。
温かな空間で、誰かの帰りを待つ期待感。
ぶっきらぼうな手のひらの体温。大好きだと思える人と、出会えた幸福。
「今日のご飯は何かなあ、ってミサカはミサカはワクワクしてみたり」
「ニンジン」
「……それはニンジン嫌いのミサカへの意地悪のつもりなのかな、ってミサカはミサカは想像して涙目になってみる……」


ミサカが出会ったのが、あなたで良かった。























2011/10/30

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