冷たい指先の、温め方を知らない。

いつから。
いつから、恐怖と感じるようになったのだろう。
打放しのコンクリート壁に身を預け、一方通行は静かに目を閉じた。キン、と冷えた温度が皮膚を伝い体内に染みこんでいく。
暗い瞼の裏側に映り込む体温。少女の、泣きたいくらいに温かな。



スポーツバッグが、たったひとつ。
この家に来た時と同じ格好で、少年はすっかり生活感を無くした部屋を見回した。
空になったクローゼットに、シーツを取っ払ったベッド。来た時と同じだ。違うのは、今日から此処に住むのではなく、今日から此処を出ていくと言う事。
それからもう一つ。スポーツバッグによじ登る面倒臭い体重が、今は無い。
片付けながら感じた事と言えば、我ながら物が少ないという事だった。先に送っているダンボールだって、二つで足りた。
新しい住処に、果たして物は増えるだろうか。
「本当に行っちゃうの?ってミサカはミサカは姑のようにしつこく確認してみたり」
感情を隠すのが下手だと思う。
ふざけたセリフで、震える声を必死に覆っていたって、湿っぽさを拭えずにいる。
(バレバレなンだよ)
だから彼は、振り向かない。
背中に届く少女の声に。泣きそうな笑顔で嘘をつく、その顔を見たら全てが終わってしまうから。
「この部屋、オマエが使えよ。いつまでも番外個体と共用じゃ狭ェだろ」
買い物の多い少女たちは、何かと収納スペースに困っている事が多かった。
だから丁度いいだろう。時たま一緒に眠っていたあのシングルサイズのベッドを、次は少女が独り占めすればいい。
素っ気ない少年の提案に、少女は一人俯いて笑った。

この家を出よう、と。決めた答えはそれだった。
それが正しい道なのかは分からない。ただ、もうそれしか無かったのだ。
一人暮らしをするのに咎められる年齢は通り越していたし、資金に困らない事は誰もが知っていた。
感情論以外で引き止める理由は、誰も持っていなかった。
何かと先を行く研究者と教師は、それでも難なく留める理由を突きつける事が出来ただろう。
それをしなかったのは、きっと彼らが自分よりもずっと『オトナ』として生きているからだ。見透かされているようで、どうしたって憎たらしい。

「……遊びに行ってもいい?ってミサカはミサカは聞いてみる」
「……落ち着いたらな」
「落ち着いたら、連絡くれるよね、ってミサカはミサカは約束して欲しかったり」
少年は答えない。
本当なら、直ぐに頷いてしまいたかった。約束だなんて、頼りない結びつきを一々求める必要なんて無いと、そう言ってやれば良かった。
けれど唇が動かない。受け入れたら、きっともう止められなくなってしまう。止める術が他に見つからないから、こうして逃げている癖に。
「……っ」
遠ざけたいのに、遠ざけられない、遠ざけたくない。
ドロドロと巡る思考の背中に、残酷に熱が触れる。思わず振り返った先に、茶色い頭のてっぺんが見えた。
きつく握られたシャツに皺が寄る。押し付けられた鼻先が、スンと鳴った。息を詰まらせてしまった事に、舌を打ちたくなる。
「……寂しいよ、ってミサカはミサカは正直に伝えてみる……」
ゆっくりと、ふらつく声は体に染み渡って、脳を揺さぶらせた。
赤い瞳の視界がブレる。力の抜けそうになる足に思い切り力を込めて、一方通行は眉間に皺を寄せた。
(なンで……)
いつもみたいに、大騒ぎでもすればいいのに。
こんな時に限って。縋りつく拳はやたらと小さく、怯えるように泣いている。

押せば溢れる涙を堪えているであろうその表情を見たら、もうこの場から立ち去る事は不可能となるだろう。
だから一度だけ。一度だけ、少年は石のように重たい腕で、思い切り少女を抱きしめた。腕の中に、全てを隠してしまうみたいに、一度だけ。





優しさのカケラも無い部屋の温度に、一方通行は瞼を持ち上げた。
いつのまにか眠っていたらしい。カーテンもつけていない窓の向こうの空は、ほとんど暗闇に包まれている。
「あー……なンも片付けてねェ」
そもそも量が少ないのだからどうって事は無いのだけれど、それでも整理すべき物はいくつかある。
感慨のこもっていない独り言を呟いて、再び瞼を落とす。遠い夢、と言うには近すぎる記憶が、未だ脳裏にこびりついていた。
いつの日からか、触れる事が怖くなってしまった少女の体温。触れ方を忘れてしまった、少女の体温。

冷たい指先を、彼女ならどうやって温めてくれていたっけ。























2011/11/14


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