暗い暗い海の底で、たった一つだけ見えたもの。
眩しくて眩しくて、ああ、さっさとどこかに行ってしまえと願いながら、目を逸らせないでいる。
ひたすらに冷たいだけの水に覆われ続けて、麻痺した皮膚に近付いてくる小さな一筋に触れたら、一体どうなってしまうのだろう。
それを知る権利は、それに触れる権利は、自分の中の何処に落ちているのか必死に探し続けて、光が消えてしまわないうちにと藻掻いている。

どうか、消えてくれるな。






「おはよーございますってかもうこんにちはの時間なんだけど、ってミサカはミサカはいつまでたっても寝坊助さんなあなたを起こしてみたり」
――夢の続きが、現実になっている。
「…………そりゃわざとやってンのかァ?」
おお、と感心したように、遠慮無く体に乗っかった打ち止めが目を見開く。
一方通行は欠伸をしながら窓際に目を向けた。クリーム色のカーテンは真っ直ぐに吊るされて、綺麗にプリーツを描いている。
綿の飛び出たソファはスプリングマットのベッドになっているし、壁紙はどこも剥がれていない。何より、覗きこんでくる少女は幼子では無かった。
ぼんやりとした意識の中で脳だけがまだあちらに行っているのが、ゆっくりと浮上する。夢を見ていた。随分と、鮮やかな色で。
あの夏の世界は終わったのだ。それでも少女だけは、変わらずに同じ瞳をして目の前に現れた。
「ちゃんと分かってたんだね、ってミサカはミサカは大感激!」
「つか重ェ」
「それは今ダイエットに励んでいるミサカへの宣戦布告と受け取るべきかも、ってミサカはミサカは臨戦態勢をあぐっ」
一方通行が寝返りをうつと、バランスを崩した体は腰の上から見事に滑り落ちた。
呻き声と共にベッドに小さな衝撃を与えて寝転んだ茶色と、眠たげな赤色が至近距離で視線を交える。


無意識に伸びる腕を、まるで他人の物のように眺めて追いかけた。
指先に訪れた温度にようやく自ら少女に触れたのだと気が付いても、一方通行は抵抗をしない。
諦めたのか、それとも慣れてしまったのか。触れたいと思えば触れる事の出来る距離にいるのだからと、言い訳を手繰り寄せる事すら止めてしまった。
温かみを甘受している事実に未だ時折違和感を感じながら、忘れる日など死ぬまで来ないと確信が持てるのは、側にいるのが少女であるからこそと思う。
それは酷く皮肉めいた、歪んだ関係のように見えるのかもしれなくとも、客観視など必要としていないのだ。
少女は誰よりも、自分自身よりも、自分の事を知っている。それだけで充分だと、傲慢な満足感を抱いて。


ふと、何か欲しいものをねだりたがっているような顔でニヤける打ち止めに、一方通行は眉を潜めて何と問うた。
催促された途端に言い淀む頬を思わず軽く抓り横に引っ張ると、抓り返そうとしてくるものだから顔を後ろへ逸らす。
観念したのか少し迷う素振りを見せたあと、悪戯心の中になんとなく照れた色を交えて、打ち止めは笑う。柔らかな頬を抓る親指と人差指から、力が抜けた。
「寝込みを襲うのはもうNGじゃなかったり、ってミサカはミサカは大胆発言」
言った直後に恥ずかしくなったのか、大げさに両手で顔を覆う色白の耳は赤く染め上げられる。
間抜けな少女を無残にも無視して背を向けると、かつても彼女に投げたセリフを放った。
「寝ろ」
「そ、そこは再現して欲しくなかった!ってミサカはミサカは一人この羞恥心を持て余している!」
「朝っぱらからうるせェンだよ」
「朝じゃないし、ってミサカはミサカは反論してみたり。もしかしたまだ寝るつもりなの?」
背中を叩く拳も無視して、瞳を閉じる。
瞼裏が作り出す暗闇を邪魔するように皮膚を通り抜ける太陽の光が眩しいが、不快では無かった。
纏わりつく腕に文句を言う気にもなれずに、ただそっと、呼吸だけを繰り返す。シャツ越しに伝わる息が、熱くてたまらない。
「今日は夏休み最終日だしあなたとゆっくりしたいなって思ってる、ってミサカはミサカは提案してみる」
耳元に響く甘えた声に、ああそォ、とだけ答えて。そういう玩具みたいに抱きついてくるのを剥がすのも面倒だった。
出会った時には、そんなものは互いに無関係だったのに、今じゃ制服を着て学校で集団生活を送っているらしい。自分だって、なんでも無い顔をして大学なんて場所に足を運んでいる。
誰よりも何よりも表側には程遠い所で生きて死ぬ人生を強いられながら、それがまるで嘘だったかのように日常に馴染んでしまった。たった独り、では無く。

真実が、変わる訳では無い。
踏みにじってきたいくつもを見ない振りなど、あり得ない。
まっさらなだけの足元で生きていくなんてもう無理で、ただ誤魔化し続けているだけなのだとしても。
それでも、共に生きていける世界が欲しいと願ってしまう。自分だけで息をする方法を、忘れてしまった。

「……オマエ、何歳になった」
「順調に成長しているので今のミサカは十五歳……じゃなくて、今日で十六歳って事でいいのかも?ってミサカはミサカはVサインしてみる」
数字の羅列と大凡人間らしさとはかけ離れた呼び名を与えられ生み出された少女はいつだったか、今日を特別な日だと嬉しげに言っていた。
いちいち日付を意識するなどくだらないと言いながら、それでもこうして、夢を見る。
今日出会わなければ、きっと何も変わらずに生きていた。路地裏から出ることは無く、断たれた道の繋げ方を知らず望みを持とうともせず。
けれど出会ってしまったのだから、それが全てなのだろう。
優しいセリフも大切な言葉も言えずに、何もかもが不足している。少女は満足気にいつまでも隣にいるものだから、寄りかかってしまうのだ。
無言で抱き寄せた華奢な背中にきっと一緒にいる限りは重たいものを背負わせるのだと自覚して、だけど当たり前のように隣にいたがるから、隣に居て欲しいと望む。
多分では無く絶対。他の何も、代わりになどなりはしない。この先ずっと、必要なのは一つだけだ。
唇に寄せた耳たぶに届けたへたくそな願望は、他の誰にも伝わらなくて良い。






暗い暗い海の底で、たった一つだけ。
逃げて、突き放して、だけど結局は手放せなかった。触れてしまった瞬間に、積み上げてきた泥の山が融けていく。
掴んだ光に縋りついて、小さく弱い光をどうにか消すまいと走り続けて、気が付けばもう引き返せないとこにいた。
(……テメェは生きられねェよ)
だから、さようなら。
血まみれの手を差し出して、絶望する事を捨ててしまえ。錆びた鎖なら、いつだって千切れる。
たとえ似合わなくとも、難しくても。独りではもう、生きられないから。























2012/09/09


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