ボタリと、おちた。欲望の雫に、また重くなる。


「寝てる?ってミサカはミサカはこっそり覗きこんでみる」
そっと伺うように潜めた呼びかけが、薄れていた意識を引っ張り上げる。獲物の声に反応した脳が、神経に電気を走らせた。
「……寝顔を見たかったのに、ってミサカはミサカはがっかりしてみたり」
ほんの数センチの間隔で、目と目が合う。なぁんだ、と、少女が不服そうに眉を下げ首を傾げた。肩まで伸びた髪がふわりと揺れる。
「そりゃ残念だったな」
あっという間に緩んだ頬は、あまりにも単純だ。特別な事なんて言っていないのに、たった一言の会話の応酬だけで、少女は惜しげなく喜んでみせる。
そうやってウソの無い顔で笑いかけるから、これで良いと自惚れてしまうのだ。自身の居場所は此処なのだと、救いようの無い優越感に溺れる。
彼女の為に用意された器に好意が注がれて、深い沼の底がゆっくりと渦を巻く。いつ溢れるかも分からない余地の無さに、高揚感が全身を包んだ。

喉元にそっと触れる小さな手に、何かが背筋を走り抜けて行く。乾いた口の中を舐めてみても、唾液はすぐに消えてしまった。
許可も待たずに抱きつく柔らかな肢体が落ちてしまわないよう、背骨の浮き出た細い背中を引き寄せれば、失われて行く隙間に心臓が沸き立つ。
吐息の感じる距離に満足するのは、もはや一人だけだ。まだ足りない。薄い桃色に濡れた唇が無邪気に誘っている事に、少女は気付いていなかった。
「仕方ないからミサカの遊び相手にしてあげるのだ、ってミサカはミサカは暗に構って欲しいと駄々をこねてみる」
膝の上に乗せた雑誌がぐしゃりと潰れて床に落ちるのを、茶色い髪の向こうに眺める。甘ったるい石鹸の香りは、まるで媚薬のようだった。

指先はいとも簡単に柔肌にたどり着き、少女の全てを掻き抱こうとする。
死んだ命が幾つもこびり付いた爪は、少女を見つける度、白い頬に血を欲する。
欲しいと思うのは他に何も無く、守りたいと思うのは他に何も無く、壊したいと思うのは、他に何も無く。

「あなた」
脳の蕩けそうなその声は、一体どんな風に啼くのだろうか。
屈託のない無邪気さがそう呼ぶ度、思い馳せては細い首から絞り出してやりたくなり、薄汚い己の感情に吐き気がする。
いつからだとか、どうしてだとか、考えるのは無駄な事だ。どこで違えてしまったのかと問えば、それはきっと最初からだろう。
少女と出会ってしまった瞬間に、こうなる事はもう確定事項だった。そうでなければならないと、盲目的に信じ込んでいる。
イかれた実験の加害者と、加害者の為に作られた都合の良い被害者。互いの存在を無視した未来なんて、初めから用意されているはずが無い。
仕組まれた出会いに含まれた、他人の意図に興味は無い。醜く歪んだ世界に囲われて、それはあまりに狂おしく魅力的な運命だ。
そうして出会い、覚えてしまった。誰かを、少女を、守りたいと思う似合わない感情を。手に入れたいと願う、我欲の塊を。

今か今かと待ち侘びているものを、音を立てずに沈ませる。千切れかけた理性を何度も結び直す。
「何を考えているの、ってミサカはミサカは率直に尋ねてみたり」
「……さァな」
本当は全てを知っているのではないかと聞き返したくなり、寸前で飲み込んだ。
必死に抑え、隠して、大きく膨れ上がった願望をいつか曝け出す時が来たとしたら、オマエはどうする。
『今』の崩れる日が訪れる事を恐れ、その裏で期待している。隅々まで少女で満たしてしまいたいと、燻る想いは渇望していた。
触れている皮膚はこんなにあどけなく真っ直ぐだと言うのに、この目が映そうとする先は、誰よりもそれを奪いたがっている。
粘つくような奥底で、未来を待ち侘びている感情が誠実とかけ離れているのは、百も承知だ。
汚れのない瞳が濁ってしまう事を拒んでいるのもまた、自分自身だった。矛盾ばかりが広がっていく。
もっと真っ当な守り方が、どこかには在るのだろう。けれど、そんなものでは満たされない。あっという間に枯渇する。
取り繕った善意を素直に飲み込めるような行儀の良さは、持ちあわせてはいなかった。時が経つ程に、それは意固地になっていく。
どんなものよりも、少女の全てを独占したかった。優先順位は常に少女であり、生きるのに必要不可欠なのは少女だ。
笑顔も、幸せも、涙も、苦しみも、痛みも。彼女の持ち得る何もかもを、この腕の中だけで生み出せば良い。欠片さえ、手放すのが惜しかった。

既に限界の近い糸がとうとう擦り切れて床に落ちる日は、鈍く尖った音を響かせるだろう。
「あなたの目って本当に綺麗だね、ってミサカはミサカは羨んでみる」
「気のせいだろ」
瞼を撫でる幼い手に宿る平穏にこのまま身を預けてしまえたら、それは最良の選択だ。

嗚呼だけど、だけど、だけど。
淡桃に染まった頬に、血の色が滲んでいく。
手の平から皮膚に染みこみ血液の中に溶け込んで、少女の一部として巡る事を、心待ちにしている。
こんな屑を信用なんてしてくれるから、思い上がらせ、また積み上がる。本当は今すぐにでも、手に入れてしまいたい。
だから逃げろよ。その笑顔を心ゆくまで壊してしまう日が来る前に――この腕は、手放す事を許さないだろうけれど。























2013/4/1


inserted by FC2 system