捨てたものと拾ったものは、一体どちらが多いだろう。



例えば、朝起きた時とか。
セットしたアラームの鳴る少し前に目が覚める。ベッドの上でのんびり過ごしているうちに、枕元に転がる目覚まし代わりの携帯電話がけたたましいベル音を鳴らしはじめた。
うんざりしながらストップボタンを押して、頭まで布団をかぶり直し、二度寝の体勢に入る。温もりを溜めたベッドの中は、恐らく世界で一、二を争うくらい心地良い。
そんな居心地の良い場所で再び夢の中に落ちかけつつあると、こちらへ近付く足音がひとつ。重たい瞼が、まだ嫌だと駄々をこねた。
ベッドルームの扉が開きカーテンレールが音を鳴らし、ようやく朝の訪れを自覚する。睡眠欲求の高い体は、毎日懲りずにやってくる朝が少しばかり、いや、だいぶ億劫だ。
「朝ですよー、ってミサカはミサカは朝寝坊さんを起こしてみる」
耳に馴染んだ声が、穏やかに目覚めを促す。瞼を持ち上げると、ぼやけた視界がエプロン姿をとらえた。
顔を覗きこむ顔はいまだ幼さを残していて、少女と間違われても不思議ではない……というのは、もしや、惚れた欲目だとかいうやつなのだろうか。
「…………」
「……起きた?」
すっかり端に追いやられた遮光カーテンから解放された室内は朝の光を取り込んで、白い眩しさをあちこちに広げている。前髪を撫でる柔らかな手から、気に入っているらしい洗剤のにおいがした。
「おはよう、ってミサカはミサカは朝の挨拶をしてみたり」

例えば、食事の時とか。
テーブルの定位置に置かれたコーヒーは、いつの間にか当然のように毎朝用意されるようになっていた。
半ば無理やりセットで揃えさせられたカップのもう片方には、ミルクが多めの紅茶が湯気を立て持ち主を待っている。
欠伸を噛み締め、BGMはキッチンから流れてくる何の歌だか分からない鼻歌だ。どうして朝から元気なのかと聞いてみたら、自分よりも先に起きているからだと言われたことがある。
準備されたサラダにフルーツが、いかにも朝らしい光景を作り上げる。二人分のトースターを手に寄ってきた姿を前に、一口飲んだブラックコーヒーが甘い気がした。
「あのね、ちょっと焼きすぎちゃった、ってミサカはミサカは舌を出してお茶目アピールしてみる」
「いつもとどこが違ェンだ」
皿の上に乗ったトーストを摘んで眺めてみれば、確かに焦げ茶の部分が多い。言われなければ気にしないのだが。
残念ながら自分の食に関する感覚は然程大したものではないし、デリカシーだって充分に持ち合わせているとは言い難いのだ。
「ひ、ひどい…! いつももっとちゃんと出来てるもん、ってミサカはミサカはよよよと泣き崩れてみたり」
「いいからさっさと寄越せ」
そう言った瞬間、たった今うっすらと涙を浮かべ悲劇のヒロインよろしく声を震わせていた打ち止めが、昔から変わらない悪戯めいた笑みを浮かべる。
涙は一瞬にして消え失せ、無駄に勝ち誇った様子はなんとも女優である(ただし通用するのはごくごく限られた範囲のみだ)
「あなたのそういう所ミサカは結構お気に入りかも、ってミサカはミサカはニタニタしてみる」
「そりゃァよかったな」

例えば、帰宅した時とか。
エントランスでオートロックを解除して、エレベーターに乗り、いつもと同じ階のボタンを押す。
少し廊下を歩き、ダークブラウンに塗られた扉の前に立つ。エントランスから持ったままのカードキーかざそうとするとガチャリとドアノブの動く音がして、反射的に手を引っ込めた。
「おかえりなさい! ってミサカはミサカは満面の笑みで出迎えてみたり!」
乗り出すように勢い良く現れたお出迎えに、思わず引っ込めた手がその額を小突く寸前。たたくとそれはもう良い音を出すのだ。
「何してンだよ……」
「あなたの足音が聞こえたから、ってミサカはミサカは茶目っ気たっぷりに舌を出してみる」
「ドアに張り付いてたのか? ガキかよ」
確かに、マンションに入る前、携帯に帰宅を告げるメッセージは一言入れておいたのだ。
だからある程度、部屋に辿り着くまでの時間は予想出来るのだろう、が。それにしたって、突然こんなことをされてしまえば誰だって反応に困るもので。
「あ、なんだか嬉しそう? ってミサカはミサカはレアなあなたを見れてラッキーかも」
きっと他の誰にも気づかれないようなレベルの違いさえ見つけてしまう鬱陶しい額に、今度こそデコピンを捧げてやることとする。
「自意識過剰だろ」



繰り返す毎日が、手のひらに滲んでいく。
忘れることは無くとも、振り返ることは無くとも、立ち止まることは無くとも。
進み続ける時間は、誰が望もうが誰が望まなかろうが過去を薄れさせてしまうのだ。そうでなければ、きっとヒトは生きていけない仕組みになっている。
あんなにも染み付いていた暗闇の匂いや薄汚い赤の色は、生き続けると決めた瞬間から別の何かに上書きされて、気付けばもうずっと奥へと追いやられていた。
この世を創る、ずっと底辺の醜い世界で生きていたのに。今居る場所がこんなにも明るく眩しいのは、全て自分で好んで掴みとったものだ。
だから後悔などしないし、するつもりもない。後悔なんて、しようと思えばいくらだって出来るのだ。だけどそれは、頼りない決意を揺るがしてしまう。
こんなバケモノに命を与え続けることを許してしまった馬鹿な人間達と、ぬるま湯に浸かりたいと思ってしまった馬鹿な自分がいる。

――それが正解なのかと問われてしまえば、答えに戸惑ってしまうだろうけれど。

並べられた食事を前にして、壁掛けのカレンダーに視線をうつす。日曜日でも祝日でもない、ただの黒インクが今日の日付を示していた。
白い皿に乗った、少し歪なハンバーグ。あの日は冷めてしまったレストランの冷凍食品だったが、今は湯気を揺らして食べられるのを待っている。
なぜだか初めっから警戒心ゼロで、対して美味くもなく安っぽい食事を嬉しそうに食べる空色毛布の奇妙な少女と出会ったのは、いつかの今日だった。
「冷凍レトルトフリーズドライのオンパレードではないのでご安心を! ってミサカはミサカは冗談を言ってみる」
「つまンねェよ」
あの時夜道で足を止めた瞬間から、人生に用意されていた何もかもが形を失った。住む場所も、食べるものも、見上げる空も、空気のにおいも、足元の感触も。
取り囲むものは変わり目まぐるしく過ぎ去って、けれどあの日出会った少女だけは、変わらず側にいる。まるでそれが当然かのように、いつだって手を繋ぐ。
「あなたと食べたレストランの冷凍のハンバーグも、みんなで食べる煮込みハンバーグも、ミサカの好きなものだよ」
打ち止めは初めて食器を触る赤子のように不自然にフォークを持ち、悪戯めいた瞳で笑う。皿に刺すのは流石に気が咎めたようで、仕草だけをしてみせた。

その存在こそが、一番不思議でならないはずだった。けれど一番不可欠なもので、自分がその隣にいることに、なんの疑問も持たずに生きている。
毎日同じベッドで目を覚まし、毎日同じ家を出て、毎日同じ家に帰り、毎日同じベッドで眠る。そんな至極"普通"の毎日を、普通にこなしている。
止められない時の流れに平穏を積み重ねて、顔も知らないどこかの誰かに荒らされガラスや家具の破片が飛び散った部屋で眠った時間は、もうずっと遠い。
一人で食事をすること。一人で夜の街を歩くこと。一人で眠りにつくこと。そのどれもこれもに、今の自分はきっと孤独と思うのだろう。
世界で誰よりも強く、誰よりも孤独だと信じて疑わなかった一方通行は、この未来を見てどんな顔をするだろうか。希望を持つのか、それとも絶望するか。

癖のあるライトブラウンの髪が、楽しげに揺れる。
かつて幼かった少女の笑顔に嘘は無く、彼女はいつだって正直だ。掴んだ感情を惜しげも無く見せるから、ここにいても大丈夫だと安堵する。
その笑みの語る幸せに、バカみたいに自惚れている。何故こんな救いようのないバケモノを選んだのか、問うことこそが愚かなのだと思ってしまうくらいに。



奪うことをやめたら、奪われる恐怖に襲われた。
荒れっぱなしの裏道を抜け出たら、右も左も分からない贖罪の道があった。
指先を血まみれにするのをやめたら、他の誰かの手と重なった。
一人で生きることを諦めたら、おせっかいで居心地の悪い、温かな世界が広がった。

ひとつ捨てたら、ひとつ拾い、それを繰り返していくうち、拾うものばかりが増えていく。
時折、もう片方の自身の可能性を考えては恐ろしくなった。本来ならばそちらが正解だったのではないかと、疑心暗鬼に陥りそうになる。
























2014/8/31
↑にあげるつもりだったみたいです……自分で見つけて驚きました 2015/3/5

inserted by FC2 system