「お日様のにおいがするね」
白いシャツの上に落ちたのは、平和ボケした唇からこぼれた生温い吐息だった。
撫ぜる空気がくすぐったく、皮膚にじわりとしみる。触れる度にそのぬるさが積み重なって、体は緩やかに熱を覚えていく。
「……あァ?」
少女の発した言葉を、効率の悪くなった脳で処理する。そうしてなんとか出てきた対応は、なんとも間抜けなものだ。
しかし件の彼女はそれを気にする様子も見せない。狭い額を犬のようにぐりぐりと擦りつけ、潰れるのではないかと思う程くっつけた鼻をすんと鳴らした。
生まれつきの茶色い髪が、部屋を照らす日差しに輝く。その頭のてっぺんに生えたアンテナが揺れるのを、ぼんやりと見つめていた。
と、突然誰かの手が視界に映り込んだ。誰か、とは誰か――それが少女の髪を撫でようとしている自分の手だと気付き、素知らぬ顔でソファに沈める。

ついさっきまで、一人で静かに缶コーヒーを飲んでいたはずなのに。
(重ェ)と感じた時にはもう、やたらと行動的な少女が我が物顔で膝の上で寝転んでいた。
そこはオマエの枕じゃねェよ。嫌味を言ってみるものの、不法侵入者は細い腕で抱きつく。こうなってはもう、しばらく動かない。
我ながら薄っぺらい腹に顔をうずめられて、幼い呼吸が静かに繰り返されるのを受け入れる。へたくそな鼻歌と共に足をばたつかせるから、ソファが不必要に揺れた。
「ねーねー、ってミサカはミサカは声をかけてみる」
「黙ってろ」
「あなた、もう少し脂肪をつけたほうがいいかも、ってミサカはミサカはミサカ専用硬い枕に苦労してると暗に伝えてみる」
「今すぐ投げ捨ててやろォか?」
「お日様のにおいがするね、ってミサカはミサカはいいにおいにうっとりしてみたり」
「……あァ?」
視線を向けると、『幼い子どもが自分に抱きついている』という、どうにも異様な状況がそこにあった。
オマエは本当に第一位なのか?しかし今更文句を言ったところで、これが日常の一つとして作り上げられた現実に変わりはないのだが。
「つゥか犬かよ」
飽きることなくべったりと貼り付く姿に、ため息が出るのは何度目になるのか、数えていてはきりがない。熱いくらいの体温は、いつか自分のものになってしまいそうだと思う。
何気なく見た窓の外には、しつこいくらいに輝く太陽が浮かんでいる。気付けば、真昼間の中でさも当たり前かのように息していた。

なんとも、まあ、似合おうとしても似合わない単語だと思う。
白い髪に白い肌。必要最低限の肉しかついていない身体。鏡に映る赤い眼は、今でも暗闇が相応しいに違いない。
隔離され孤独を選び血生臭い夜を好んだ人生を綺麗に塗り替えるには、まだ時間も覚悟も不足している。
誰が採点しても合格ラインのずっと下だ。それを知っていても尚、少女はその言葉を選んだのだ。あまりに似つかわしくなく、眩しい言葉を。

「ミサカはこのにおいを独占したいかも、ってミサカはミサカは衝撃告白をしてみる」
「……オマエ以外どこにこンな物好きがいるンだ?」
答えると、何故か勢い良く埋めていた顔をあげる。
真っ直ぐに見上げる丸い瞳が、瞬きを繰り返した。透き通った色は、こんな奴なんかよりもずっと"オヒサマ"が似合う。
しばしの静寂。その両頬を抓ってやろうかと考え始めた途端、小さな口が開かれた。
「ミサカがずっとあなたを独り占めしてあげるね、ってミサカはミサカは関白宣言」
そう言って笑う少女に、自身の発言を取り消すにはもう遅かった。そもそも残念なことに、取り消す言い訳も思い当たらない。
しまったと後悔するにも、後悔する明確な理由を見つけられない。ポンコツに成り下がった脳を、どうしたら殴ることが出来るだろうか。
先程よりもずっと強い力で抱きついてきた腕を緩めさせようとしても、徒労に終わることは分かりきっている。離れるのが惜しいと感じてしまう馬鹿がいることも、分かりきっている。

その感情を何と呼ぶのか。その気持はどこへ向かいたがっているのか。きっと名をつけるには遠すぎて、歩く路は散らばったままだ。
けれど可笑しなもので、先の見えない暗闇は、今まで通ってきたもの達とはまるで別物のように見えるのだ。そこに辿り着けば、一瞬で晴れ渡るはずだ。
人並みの幸せを求めて良いはずなど無いのに、この意識は無我夢中で少女の手を取りたがっている。そこに心地よさを感じている。
太陽の最も似合わない化物は、太陽の最も似合う少女と歩み続ける将来に疑問を持つことが出来なかった。
他のどんな地獄も受け入れてやるから、この瞬間をいつまでも続けられるようにと、世界一贅沢な望みを抱いている。























2015/12/6


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